2011・8・7のメッセージ - 「祈りの生活を確立しよう」

「祈りの生活を確立しよう」
Ⅰ ペテロ 4:7~11

1、祈りは大切

万物の終わりが近づきました。心を整え、身を慎むのは祈りのためです。

終末時代、世は「祈りのない生活」を私たちに強要してきます。

なぜなら祈りは神様から力をいただくことだからです。世はそれが自分の敗北につながっていることをよく知っています。だから祈りから私たちを遠ざけたいのです。

①ひとつは忙しさを使います。忙しいという理由は、祈りの時間をもたせない動機となります。

②ひとつは経験や慣れを使います。計画的に見通しがたったり、過去の経験からでは大丈夫、ということばは、祈るということよりもはるかに確定的に聞こえます。

③ひとつは人を使います。必要な筋の強力な助け人がいると神様に祈らなくなります。

 

祈りのない生活は、霊的にしまりのない生活となります。神様からの力がなくなります。

その霊的しまりのなさは必ず実生活に現れ、それは8節につながる愛の行いがとれなくなることでわかります。

特にここで言われている愛の行いとは、互いのために熱心に祈り合うことと結びついています。愛とは単独では持てません。関係の間に生まれてきます。

つまり私たちがお互いのために祈り合うことが減っていくことは、愛の乏しさと結びつき、世の荒波に対抗する力を失っているということです。

ここに注目せねばなりません。

 

 

2、交わりと祈り。

終末時代は自己中心が顕著になると黙示録では語られています。

罪の性質が自己中心であると位置づけるならば、私たちも世にあって「自己を中心とする」方向に引きずり込まれることに気をつけなければなりません。

つまり終末時代において、個人の祈りは保持されても、お互いのために祈り合う機会は薄れていくと警告されているからです。

それに対抗して、主は教会全体を一つのからだと位置付け、お互いに祈り合うようにと命令しています。

 

これは祈りにおいて重要です。

自己中心に傾くと、他者とのかかわりを避けたくなります。

「お互いのために祈り合う」という機会がどんどん減っていきます。

ところが祈りはよいものであるはずなのに、祈りのバランスを欠いているために祈りが有益となりません。

そういうわけで「なによりもまず互いのために熱心に…」と言われているのです。

愛は多くの罪を覆います。これはとりなしの祈りのことです。

とりなしの祈りは、賜物の違いをあわせることであり、個人の祈りではできない2つの点で大いに力があります。

①相手の欠けたところを補う祈り。お互いの背面のための祈り。お互いの神の武具を点検するための祈り。

②必要を重ねて祈る祈り。2人でも3人でも心をあわせて祈る時、そこに主は力を注いで下さる。

とりなして祈るためには交わりが必要不可欠となります。

このためにも聖徒たちの交わりは聖別されるべき必須なことがらであると言えます。

 

私たちは一つからだです。ひとつの部分が不足で苦しめば、神様ご自身はからだ全体に痛みが及ぶことを許可されます。このことをすっかり忘れがちなのですが、この機会にぜひ思い出しましょう。

 

 

3、まとめ

大切なのは、立派な行動や奉仕をすることではなくて、それによって神様の名があがめられることだと書かれています。

とりなしのための祈りでも、神様の名があがめられるためには、私たちはひとりで祈るのではなく、顔と顔とをあわせて祈り合う必要があります。

兄弟姉妹たちとお互いのために祈り合う時を用意し、聖別していますか。

今日の箇所は祈りのアーメンで結ばれています。ともに祈りあう時こそ私たちに大きな力が働く証拠です。

祈りに力がないのはともに祈りあう時が少ないからかもしれません。

困難な時代だからこそ、互いに集まり祈りあうことをやめたりしないで、祈りに働く主の力をともに体験していきましょう。

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